長い歴史と文化に培われてきたお茶。京都においても、私たちの生活に身近に関わる各所で、今も宇治茶の文化が伝え続けられています。そんな歴史と文化をご紹介します。
茶の歴史はインドから各地に広がり、中国などでも一般的に飲まれるようになりました。
日本茶の歴史は、栄西禅師が宋(中国)より茶の種子を持ち帰ったことから始まり、喫茶の基礎を築いたといわれています。その著作「喫茶養生記」には、茶のさまざまな薬用効果が書かれており、人々にお茶を飲むことを奨励しました。
その結果、貴族や禅僧から武士へ、そして室町期となると、茶の湯へと形を変えて、現在の茶道へと姿を変えていくのです。
お茶は風土を選びます。栽培に最適な気候条件に恵まれてこそ、いいお茶は生み出されるのです。
宇治における茶の栽培は、京都栂尾(とがのお)高山寺の明恵(みょうえ)上人によって始められたと伝えられます。明恵上人は、師匠の栄西禅師が中国から持ち帰った茶の種子を、栂尾深瀬の地に播きました。上人はその後、茶の普及のため山城宇治の地を選び、茶の木を移植。それが宇治茶の永い伝統の、記念すべき第一歩だったのです。
宇治にある万福寺の山門に明恵上人の歌碑があります。『栂山の尾の上の茶の木分け植えて 跡ぞ生うべし駒の足影』。「駒」とは馬のこと。上人が馬にのり、その馬の足影(足跡)に茶の種を植えることを教えた様子が、この唄には詠まれています。
と歌われたように、川霧が立ち冷涼で霜の少ない宇治は、茶の栽培には絶好の気候風土を備えていました。茶栽培の理想の地として宇治を選んだ明恵上人の目は、まさに卓越したものがあったといわざるをえません。
以後、足利義満、義政をはじめ信長、秀吉なども大いに茶を愛し、宇治茶は日本の茶の代名詞として発展していくのです。
元文3年(1738)宇治茶生産は大きな技術革新を迎えます。それまでの釜炒茶から、蒸して手もみをする現在の製茶法へと移行することになります。その変革者が当時に茶業家であった永谷宗園。これを機に煎茶の製法は次々と改善され、日本を代表する名茶産地としての名声を築くことができました。